全日本ろうあ連盟創立70周年記念ドキュメンタリー映画「段また段を成して」上映会。 4月22日にふじみ野市立大井中央公民館で行われ、私も参加してきました。
聴覚障がい者の戦後を描いた映画。BGMもない全くの無音、手話と字幕だけで進む展開は、なんだか心細くなるような不思議な感覚。ろうあ者の世界はこんな感じなのでしょうか。
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ふじみ野市では昨年12月議会に手話言語条例を全会一致で可決、施行されました。埼玉県63市町のうち、6番目の条例制定です。 条例では手話を言語として定め、その理解や普及につとめることを定めています。 日本語や英語、中国語は、法律や条例の有無にかかわらず、私たちは言語として認識しています。他の言語が理解できなければ、通訳を介してコミュニケーションをとろうとしたり、熱心な人はその言葉を学ぼうとします。 手話も同様に、ろうあ者とコミュニケーションをとるために手話通訳者を介したり、手話を学んだりします。でもどうして手話にだけ「手話言語条例」が制定されるのか。実は私はその本当の意味をよく理解していませんでした。 手話が言語として明文化されることの必要性。それは戦後まもなく、ろうあ者は手話を使うことを禁じられ、手話が手まねと嗤われた差別の対象であったという歴史が深く関係しています。 そればかりでなく自動車運転免許をはじめとした資格取得が認められずろうあ者は無能力者、責任を取れない人とみなされ、差別や偏見と戦ってきたのです。 映画では運転免許の取得を通して、聴覚障がい者の権利拡大も描きます。
全く聞こえないろうあ者がワイドミラーの使用などを条件に普通自動車の運転免許が取れるようになったのは2008年のこと。少し前のことです。 さらに二種免許が認められたのは2016年4月。ほんの1年前のこと。私は全く知りませんでした。 足を踏んだ人は、踏まれた人の痛みに気づかないもの。 だからこそ手話を「言語」として法律や条例に位置づけることは、大きな意味があることなのです。 映画を通してあらためて無自覚の差別と偏見について、考えることができました。